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自分にしみついたオープンソース的な感覚について

img 私は趣味のプログラミングを全部オープンソースにしているが、仮にそうでなかった場合どうだっただろうと考えた。 考えるきかっけになったのはこの記事のこのくだり。 透明性への耐性を備えた組織を設計する - Joi Ito’s Web - JP まるで、ソフトウェアが書かれた後に「オープンソース化する」ことになった プロジェクトのようなものだ。コードがごちゃごちゃで、ほとんど不可能とい う場合が多い。ソフトウェアをオープンにする場合には、外の人間にも理解で き、恥ずかしくないような書きかたをするのが普通だ。例えば変数に卑猥なこ とばを使ったり、コード内のコメントのところで恋愛関係の不満をぶちまけた りする開発者も何人か知っている。彼らはコードが突然オープンになったら、 職や伴侶を失うことになりかねない。

実は、このくだりはこの記事の極端な例え話として使われている話題であり、テーマそのものでは無い。 しかし、テーマには関連する。 テーマは、インターネットが主流になった世界においては、透明性に対する耐性を普段から上げておくために普段からそれを意識した組織にしておく必要があるということ。 いつオープンにするよう求められてもその耐性を組み込んでおけということ。

で、前置きが長かったが自分の話に戻ると、普段からオープンソースを自分のニュートラルな状態としてしみこませていると、クローズドな環境であっても恥しくないコードを書こうとするということ。 これはエンジニアとしてコダワリにも通じる。(悪くいえばコストをいくぶん度外視した自己満足的なところあるかもしれないが) 結果的に、透明性に対する耐性を上げているということになる。

そうしておくと、突然いま書いているコードを他者に転売・譲渡(納品という形が一番多いが)する時に問題が無い。 実際に過去のプロジェクトで自社商品から派生したシステムのソースコードが納品されることもあったなぁと思い出した。

最近、Web系企業から多くのプロダクトがオープンソースになっている。 この流れは加速しそうなので、今クローズド前提のコードを書いている人も心掛けておいて損は無いと思う。