WIRED VISION / 「ゲーマーの後悔」は終わらないを読んで
たしかにゲームを長時間した後の後悔は大きい。 私は、それが怖くて10年ほどRPGなどの時間がかかりそうなゲームはやっていないし、据置型ゲーム機も一台も持っていない。 ちょっと寂しい人生のような気がしないでもないが、結果としてその時間をオープンソース開発にあてることが出来たと勝手に解釈している。 オープンソース開発に使った時間は膨大だが、なぜか後悔しない。 それはなぜか。 オープンソース開発も複数の人間でコラボレーションして或る種のゲームのような楽しさも持っている。でもゲームでは無い。 この記事に答えに近づけるヒントがある。( WIRED VISION / 「ゲーマーの後悔」は終わらないより引用 ) クロスワードパズルの専門家、Will Shortz氏は以前、人が紙とペンを使うパ ズルを愛する理由は、「人生には答えが1つではない問題が山ほど存在するが、 クロスワードでは答えは1つと決まっていて、それを見つけ出すことができる からだ」と私に話したことがある。だが、クロスワード中毒と同様、ゲームが 終わった後、われわれに何が残されるのか?達成感だろうか?確かにそれはあ るだろうが、われわれが成し遂げたことは、この上もなく独断的で、非生産的 な仕事でしかない。ゲームが終わったときに私が感じる喜びにはいつも、少し のむなしさが付きまとうもっと生産的で、難しくて、やりがいがある何かをし た方がよかったのではないか? オープンソースソフトウェア開発が後悔しない理由を一言で言い表すとこういうことかなと思う。 『ゲームはあらかじめ誰かが答えを用意してくれているが、オープンソース開発のようなものづくりには答えは用意されていない。』 つまり、自分が通ってきた道がありふれたものか、それとも自分だけのものかという事ではないかと思う。 そんなわけで、オープンソースソフトウェア開発はやめられない。